リリエンタールからライト兄弟

2020.10.19

翼形の本格的な研究は、オットーリリエンタールが始まりだと思います。リリエンタールの飛行実験のデータは細かく残されていて、後のライト兄弟がリリエンタールの研究資料を基に、ライト兄弟自身が作った小型の風洞実験装置で翼形の違いによる飛行特性や揚力係数を割り出して、リリエンタールが飛行実験の後半に使用していた12番の翼形でライトフライヤーの翼が設計されています。
※その時の揚力係数の計算式は、今の正確な計算式に近い数式だと言われています。

リリエンタールの墜落の後に、あの形でライトフライヤーのグライダーを設計した理由ですが、一般的な尾翼型の機体では、一旦失速するとノーズダイブして地面に向かう特性に比べ、先尾翼型で設計すれば、失速特性が穏やかで、墜落の衝撃が小さい事まで分かっていたのかもしれません。
ライト兄弟の本を何冊も読むと、テストフライト中に何度か墜落をしているのでが、大けがをしていないのです。でも後に、パッセンジャーを乗せてデモフライトした時に墜落事故が有り、パッセンジャーが死亡しています。

著書には、滑空と操縦ができるグライダーが出来上がって、そのグライダーにエンジンを載せて飛ぶためには、何馬力のエンジンが必要なのか、計算式で割り出したと書いていますから驚きです。

積み込んだエンジンは汎用エンジンを自前で改造して航空機用にとても軽く作り直していますが、キャブレターを使用せず、ガソリンの水滴を吸気マニホールド近くに落として、エンジンの熱で揮発したガソリンが吸い込まれる仕組みにしています。吸気弁はタペットに押されて大きく開くのではなく、吸気工程でピストンが下がる負圧で吸気バルブに隙間が開き、吸入する空気で混合ガスが吸い込まれる仕組みです。
スパークプラグは無く、燃焼室に電流が流れる接点を機械的にコンタクトして、接点が離れるときに起きる逆起電力のわずかなスパークで着火する仕組みですが、点火時期を決める可変型の進角装置はなく、エンジンを暖機運転してガソリンの水滴が落ちる速度を決めてから進角角度も調整しています。離陸前のこの作業はものすごい爆音の中でその都度最大推力になるように調整しています。なので、エンジンの出力調整をするスロットルは無く、ONかOFFだと書いています。

さらに驚くのは自分で木を削り出して推力の大きいバランスの取れたプロペラの開発と、非力なエンジンでも直径の大きなプロペラを駆動することで、大きな推力が得られる事を理解していたようで、ライトフライヤーは15馬力前後のエンジンからチェーンドライブで2.6mもの大きな重いプロペラ二つを回して、260Kgもの重いライトフライヤーを飛行させています。
想像ですが、15馬力程度の非力なエンジンですからプロペラの回転は、目で見て追えるくらい、ゆっくりと見えていたと思うのですが、それでもプロペラが大きいほど推力効率が良いことを突き止めていたようです。

ライト兄弟の資料を調べると、最初にアメリカ各地の気象条件を調べて、何時も風が吹いている丘を探し出し、船でしか行けないキティーホークの丘の上にその為の生活ができる小屋を建て、近くの海辺に舞う鳥の飛行を何日も観察する事から始まります。
そしてキティーホークの試験飛行や自転車工場の風洞実験など、幾重にもわたる彼らの理論的な開発や発明には驚くばかりです。

写真を見ると二人は作業をしている時も、おおむね背広にベストとネクタイだいだったようです。
僕らはパラグライダーの操縦にアドバースヨウの理論でブレークコードを引いて操縦していますが、ライト兄弟は丘から低速で飛行するグライダーの飛行実験の中でその現象に気が付いて、のちに垂直尾翼を追加して理論的な旋回を始めています。
腹ばいになってコントロールステックで操縦しながら、腰を左右に動かすことで垂直尾翼をコントロールしています。

僕はハンググライダーで飛んでいたときには知らなかったのですが、パラグライダーの時代の初期に、キャノピー生地のコーティング処理が悪くて、すぐにほんの少しエア漏れが始まって、2年目には滑空性能が目に見えて悪くなるメーカーが有りました。
ポロジメーターでの測定でしか分からないほどのわずかな生地のエア漏れでも、著しく揚力が半減するのです。(そんなわけで、皆さんのキャノピーも大事に扱いましょうね)

リリエンタールやライトフライヤーは布地に油を塗って使用しています。あの時代にはきっと、ただの布を翼に使用しただけではエア漏れが起きて、絶対飛ばないことを分かっていた人は、ほんの一握りだったのではないでしょうか。

ライトフライヤーの離陸から30年もたたずに全金属製飛行機が現れ第2次世界大戦では時速500Kmを超える飛行機が現れ、40年後に弟オービルは音速を超える航空機X-1を知る事と成り、自ら切り開いた飛行機の進化を見ています。

そうそう、星の王子様の作者であるサンテグジュペリは、幼いころ、ライト兄弟がフランスでデモフライトをした時にそれを見ています。
サンテグジュペリは飛行機にあこがれて、航空郵便のパイロットとしてピレネー山脈を越え、ジブラルタル海峡を超える郵便パイロットの仕事をしていた中で、何度も墜落をしていて、その砂漠の中から生還できるか分からないのに、自分で墜落機と一緒に写真を撮って残したりしています。
そして彼は第2次世界大戦中に偵察機に乗りコルシカ島から離陸し、地中海で消息を絶っているのですが、後に「あの機体に乗っているのがサンテグジュペリだと分かっていたら、私は撃ち落とさなかった」と、あるパイロットの証言が出てきています。
サンテグジュペリは、お城育ちのお金持ちでした。そしてヨーロッパでは比較的有名な小説家でもあったようです。
第2次世界大戦中に彼は自分の飛行機を2機所有していました。飛行機の名前は忘れましたが、2機とも同じ型の飛行機です。(箱根の星の王子様記念館を訪れた時の思い出です)

おまけにもう一つ、
本田宗一郎は、日本に飛行機が入ってきたときに数十キロも自転車をこいで、飛行機のデモフライトを見に行ったと書かれています。
そして参戦するF-1レースで優勝を重ねる中で34年前に「ホンダは飛行機を作る」と宣言しています。そして今、ようやくホンダジェットが飛び始めています。

ライト兄弟のお話に関係ないけど!
ホンダは戦後の1948年に設立され、自転車に小さなエンジンを付けて販売するメーカーとして始まり、日本で最後に出てきた9番目の小さな自動車メーカーです。販売店はオートバイ屋さんで、僕もオートバイ屋さんからN360を購入しています。
その頃日本はどのメーカーもレースができる高速サーキットが無く、高速道路も無かったのですが、ホンダは鈴鹿サーキットを自前で作り、市販車の3~4倍の20,000回転も回すことができるエンジンが完成していてF-1優勝していました。(発明したそのOHCエンジンは、世界中で使われています)
最初に発売した自動車が軽トラックでしたが、日本で初めてDOHCエンジンを積んでいて高性能でした。でもN360がヒットしてシビックの販売が始まるまでは、しばらく最下位のメーカーでした。(50年前のお話です。その後23~24歳の僕は、シビックの販売をする営業マンです。まる2年間で210台ほど販売し、体を壊して辞めています!)